車胤伝

訳出担当 辰田 淳一

 車胤字武子,南平人也.曾祖浚,吳會稽太守.父育,郡主簿.太守王胡之名知人,見胤於童幼之中,謂胤父曰:「此兒當大興卿門,可使專學.」胤恭勤不倦,博學多通.家貧不常得油,夏月則練囊盛數十螢火以照書,以夜繼日焉.及長,風姿美劭,機悟敏速,甚有鄉曲之譽.桓溫在荊州,辟為從事,以辯識義理深重之.引為主簿,稍遷別駕、征西長史,遂顯於朝廷.時惟胤與吳隱之以寒素博學知名於世.又善於賞會,當時每有盛坐而胤不在,皆云:「無車公不樂.」謝安游集之日,輒開筵待之.

 車胤は字を武子といい、南平の人である。曾祖父は車浚といい、呉の会稽の太守だった。父は車育といい、郡の主簿だった。太守の王胡之は人物鑑があることで名高かったが、幼いころの車胤を見て、車胤の父に言った。「この子はあなたの一門を大層栄えさせるに違いない。もっぱら学問をやらせなさい」。車胤はつつしんで学業につとめて倦むことなく、広く学んで多くのことに精通した。家が貧しく、いつもは油を得ることができなかったので、夏には絹の袋に数十匹の蛍を入れ、その光で書物を照らして、昼に夜を継いで勉強した。成長して、その容姿は美しく、利発であり、郷土の誉れ高かった。荊州にいた桓温は、彼を召し出して従事とし、義理を深くわきまえ知ることからこれを重んじた。主簿に推挙され、やがて別駕・征西長史になり、ついには中央の朝廷に出仕するまで出世した。このころ、車胤と呉隠之だけが、貧しい育ちから出て博学であることで世に名前が知られていた。また、車胤は面白く楽しむことも長けていて、盛大な宴会があっても、車胤がいない時には、みなが言った。「車公がいないと楽しくない」。謝安が遊び楽しむ日には、いつも宴席を設けて彼を待っていた。

 寧康初,以胤為中書侍郎、關内侯.孝武帝嘗講孝經,僕射謝安侍坐,尚書陸納侍講,侍中卞耽執讀,黃門侍郎謝石、吏部郎袁宏執經,胤與丹楊尹王混擿句,時論榮之.累遷侍中.太元中,增置太學生百人,以胤領國子博士.其後年,議郊廟明堂之事,胤以「明堂之制既甚難詳,且樂主於和,禮主於敬,故質文不同,音器亦殊.既茅茨廣廈不一其度,何必守其形範而不弘本順時乎!九服咸寧,四野無塵,然後明堂辟雍可光而修之」.時從其議.又遷驃騎長史、太常,進爵臨湘侯,以疾去職.俄為護軍將軍.時王國寶諂於會稽王道子,諷八坐啟以道子為丞相,加殊禮.胤曰:「此乃成王所以尊周公也.今主上當陽,非成王之地,五相王在位,豈得為周公乎!望實二三,並不宜爾,必大忤上意.」乃稱疾不署其事.疏奏,帝大怒,而甚嘉胤.

 寧康(註1)の初め、車胤は中書侍郎・関内候となった。孝武帝がかつて孝経を講じたとき、僕射の謝安が侍座し、尚書の陸納が侍講し、侍中の卞耽が執読し、黄門侍郎の謝石と吏部郎の袁宏が執経し、車胤と丹陽の尹王の王混が擿句し、この時、議論が盛り上がった(註2)。その後、侍中になった。太元(註3)の中ごろ、大学の学生を百人増員し、車胤に国子博士を務めさせた。その後年、廟の祀り方や朝廷の儀礼について議したとき、車胤が言うには「朝廷儀礼の制度は既にあまりにも難しく詳細です。まさに、和によって君主を楽しませ、敬することで君主に礼を尽くすべきです。故に実質と形式は違っており、音器はまた特殊なのです。既に茅茨で葺いた大きな家(註4)はその度を一にしないのに、何故、その形式を守るばかりで、その本質を重視し時代に合わせることをしないのでしょうか。九服(註5)はみな安らかで、四方の野原に塵がなく、そうなって初めて明堂や辟雍は光り、そしてこれを修めることができるようになります」その時の場はこの議奏に従った。また、驃騎長史・太常となり、臨湘候に昇任し、病気でその職を辞めた。また、しばらく護軍将軍を務めた。この頃王国寶が、会稽王司馬道子にこびへつらって、司馬道子を丞相とし、特別の礼遇を加えることを申し入れるよう八坐(註6)にほのめかした。車胤が言うには、「これは成王が周公を尊敬して敬ったのと同じ事である。今主上は即位し南面して座っており、成王がいた場所にはいないのに、会稽王とともに位にあって、周公同様とすることができようか?(註7) これは見かけと内実が一致しておらず、まったく良くないことである。必ず陛下の意志に大いに逆らうことになるだろう。」そこで病気と称してこの件に署名しなかった。この件を奏上すると、帝は激怒し、そして車胤を非常に賞賛した。

 隆安初,為吳興大守,秩中二千石,辭疾不拜.加輔國將軍、丹楊尹.頃之,遷吏部尚書.元顯有過,胤與江績密言於道子,將奏之,事泄,元顯逼令自裁.俄而胤卒,朝廷傷之.

 隆安(註8)の初め、呉興太守として、二千石を拝領したが、病気で辞退して受けなかった。輔国将軍と丹楊尹を加えられた。この頃、吏部尚書になった。司馬元顕(注9)に過失があり、車胤は江績とともに司馬道子に密告しようとしたが、密告の直前に発覚し、元顕は車胤を強引に自決させた。突然の車胤の死を、朝廷は悼んだ。

(註1)西暦373〜375年。
(註2)作成中
(註3)西暦376〜396年。
(註4)堯王の宮殿のこと。このような質素なものであった。
(註5)周代、天子の都の千里四方を中心に、外に三百里ごとに一服とした九つの区域。
(註6)六曹尚書と令と僕射のこと。日本の古代で言えば参議クラス。
(註7)周の武帝の死後、子の成王が幼少だったので、弟の周公旦が皇帝の座るべき場所で
 南面して臣下に接し、成王が成長すると本来の通り成王にその場所を譲って
 自分は北面して臣下の礼を行った、という故事。
(註8)西暦397〜401年。
(註9)会稽王司馬道子の息子。


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